「将棋を指してもらい、哲学談義をしたい」との依頼の青年がやって来た【中田考のレンタルおじさん】
中田考「レンタルおじさん、始めました」連載第3回
■「全てはイスラームの話です」というのはどういうことか?
Fさん:世と俗を分けないということでしょうか
中田:そういうことではありません。例えばここに机がある。これも机がイスラーム(アッラーへの帰依)をしているっていうことなんですよ。世界があるっていうことがイスラームなので物理学でも経済学でも全てがイスラーム学なんです。我々にとってのイスラーム学というのはそういうものです。
Fさん:全てがイスラームだとすれば特に「イスラーム学」と呼ばれているものはなんでしょうか
中田:狭義の「イスラーム学」は神の啓示、つまりクルアーンとハディースの解釈学になります。イスラーム神学、イスラーム法学、スーフィズム(イスラーム霊学)などが啓示の解釈学です。
Fさん:例えば僕が哲学をやっても「イスラーム」をしていることにはならないんですよね
中田:そうですね。「イスラーム」とは「帰依」を意味しますから、唯一の真理の源泉である神を信ずる一神教信仰はないとイスラームしていることにはなりませんよね。日本語ではイスラームの説明をするのは非常に難しいんですが、信仰するかどうかも神様が決めていることで自分で決められると思っているのがそもそも間違いだ、ということをまず理解してもらわないと話が始まりません。
唯一神教とは一人の神だけを信じるというよりも、それ以外のものは信じない、ということなのです。人間は何も信じないというのはそもそもあり得ず、神仏であれ、金であれ、国家であれ、科学であれ、民族であれ、自分であれ、何かを必ず信じています。
■「神」とはいったい何か?
Fさん:信仰があるかどうかという型取り自体がないのでしょうか?
中田:そもそもアラビア語の「イラーハ(神)」というのは「崇拝されるもの」という意味なので、実体の属性というよりも、人間が何かを神とする、という関係性から生ずるのです。善悪を問わず人間であれ動物であれ草木や山や星であれ何であれ「珍しく奇しいもの」を意味する、日本語の「カミ」とはまるで違う概念なんです。ところでFさんはそもそも「カミ」ってなんだと思います?
Fさん:日本語で神と言えば神道の神をまずイメージしますね
中田さん:例えば「藤井聡太二冠はカミ」とか言うのとは違いますね。
Fさん:それとは全然違いますよね
中田:違うんですか。じゃあどういうものが神なんですか。
Fさん:「根拠」がないものですか?
中田:「根拠」が神なのであれば神を信じないというのは根拠を信じないということですね。根拠を信じないというのはどういうことでしょう?
Fさん:因果関係がなく、全て偶然ということですか。
中田:偶然と必然ってどう違うんですか。例えばここにある籠はさっきもありましたけど、今もまたここにある。これって、偶然なんでしょうか。これも偶然だとすれば、世界の出来事の全ては「偶然」ということになってしまいますよね。全てが「偶然」なら、「必然」なものはなくなってしまうので、わざわざ「偶然」という意味がなくなってしまいます。逆に必然だったとしても同じで、こんどは全てが必然となるので、「偶然」にも「必然」にも意味がなくなります。
Fさん:科学法則とかで成り立っていることとか…うーんよくわかりません。
中田:問題の根源は、そもそも法則が成り立っているかどうかをどうやって知ることができるのか、です。わかるんでしょうか。「クリプキのヴィトゲンシュタインのパラドクス」など持ち出さなくても、そういうことを自分で考えている、というふうに思い込んでいること自体が間違っているのです。哲学の方では今はやりの「中動態」の議論とは、実はこの世界に対する神の介入への問題なのです。
私自身が現在一番興味を持っているのは、「時間」の問題です。結論から言うと、時間は仮象であり、映画が観客には時間にそって風景が動いているようにみえても実際には最初から最後までが時間のない一本のフィルムの中に納まっているように、宇宙の歴史は全て最初から最後まで一本のフィルムのように「同時」に存在しているのです。この意味での無時間論とマルチユニバース論を神学的に折衷することが当面の私の夢ですが、それについては1年ぐらいで考えを纏めて『神論 ―一神教神学序説(仮題)』として出版する予定ですので楽しみに待っていてください。
文:ヒサマタツヤ
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[caption id="attachment_939088" align="alignnone" width="525"] 「あなたが不幸なのはバカだから」 「ベストセラー『君たちはどう生きるか』 を読むとバカになる! 」 イスラーム法学者の第一人者にして 博覧強記の怪人・中田考がはじめて語り下ろした 極辛劇薬人生論。そこに〝愛〟はあるのか!? ————要するに自分が頭がいいとか、身体能力が高いというのはあまり重要ではなくて、自分の能力をちゃんと理解して分相応に生きるのが賢いということです。人間であっても、ミミズであっても、そこをまちがえると、どんなに身体能力が高くても知的能力が高くてもバカなんです。自分が賢いと錯覚したバカな人間は分を知ったミミズより劣ります。そういう意味で今の世界の教育はバカを作っているんです。分相応以上に自分ができると思っている人間を作っている。……それはたいていの場合、人を不幸にするんです。(本文中より抜粋) ————人が知るべきことは「自分が何をしたいのか」、そして「自分には何ができるのか」の二つしかありません。殆どの人は本当に自分がしたいことに気付いておらず、また自分に本当はできることをできないと信じこんでおり、逆に本当はできないことをできると思い込んでんいます。それがバカであり、本当の意味でダメな人です。 本書の目的は、本当に知るべきこと、つまり、自分が何をしたいか、自分に何ができるか、を気付く手掛かりを読者に与えることにあります。 実のところ、人が知るべきことは本当は二つではなく、三つです。その三つ目とは、「自分は何をなすべきか」です。……(あとがき抜粋)[/caption]